茶道といえば、お茶をお客様に振舞う日本古来の伝統的な作法のことで、厳かな雰囲気を感じさせるものです。和菓子とは何かを含め、茶道の歴史と和菓子の発展を紐解いてみましょう。

目次

和菓子とは

和菓子は日本のお菓子ということは分かりますが、和菓子と呼ばれるようになったのはいつのことでしょう。明治時代以降にヨーロッパなどの海外のお菓子が伝えられてきました。それを洋菓子とし、それまでの日本のお菓子を和菓子とするようになったとされています。

平安時代初期に伝わったとされる中国のお菓子である唐菓子(からがし、とうがし)を元として変化したきんとんや織田信長や豊臣秀吉の安土桃山時代にポルトガルから伝わったカステラなどの南蛮菓子は和菓子とされるなど、日本に伝わってきた時代によって和菓子と洋菓子と分けられていることが主流となっています。

茶道の歴史と和菓子の発展

その昔、菓子は果子と書かれていたといわれています。それは、木の実や果物を祭事などでお供え物として使われていたことからです。平安時代には唐菓子が伝えられ、唐菓子は材料にもち米や大豆などが主に使われた油で揚げたものが多くありました。また同時期に中国からお茶が伝わってきて、当時は薬として飲まれていました。

鎌倉時代には禅僧(禅宗という仏教の僧侶)の間で喫茶の習慣が定着しました。その時のお茶請けとして点心と呼ばれる簡易的な食べ物が食べられ、それがおやつの原型になったそうです。点心は肉や野菜を詰めた饅頭でしたが後に小豆の餡を入れた饅頭(まんじゅう)へと変化していきました。

室町時代に入ると武家と禅宗が結びつき、茶の湯が発達して茶道が確立されました。それとともに、茶席でもお菓子が発達していきました。
その頃のお菓子は日本古来の名残からか木の実が使われたり、松茸の煮物やあわびなどが用いられました。このお茶請けのことを茶の肴とも呼ばれてきたようです。

安土桃山時代以降に砂糖の輸入量が増えてきたことで砂糖が多く使われるようになり、また金平糖やカステラなども輸入され始めました。しかし砂糖が貴重なものということもあり、庶民の間で甘いお菓子はなかなか食べることはできませんでした。

江戸時代に入り和菓子も完成されていき、蒸し菓子や干菓子や飴など作り方も書物に図式されるほどで、今日の和菓子の基本がほとんど完成された時代でもあります。その後の江戸後期になり、ようやく庶民もお菓子を楽しめるようになっていきました。

お茶と和菓子

お客様に振舞うお茶には、濃茶(こいちゃ、濃いお茶)と薄茶(うすちゃ、薄いお茶)があり、濃茶はお茶を練る、薄茶はお茶を点てる(たてる)と表現します。和菓子はそのお茶と一緒に味わうものです。

濃茶は厳粛な場でいただくことが多く、濃茶をいただく場合は濃茶を口にする前に和菓子をいただくことによって口の中にほのかにのこる甘さがそのあとの濃茶のほろ苦さと味わい深さを引き立ててくれるものです。そのときの和菓子は主菓子(おもがし)と呼ばれる生菓子をいただきます。

薄茶はどちらかといえば清談を交えながらをいただくもので、干菓子をいただくことが多いですが、主菓子をいただくこともあるようで、和菓子に関しては何をどういうときに何を出さなければいけないという決まりは特にありません。

茶道で使われる和菓子

茶道で使われる和菓子は主菓子(生菓子)と干菓子がありますが、具体的にはどういったものが使われるのでしょうか。主菓子で使われるのは、きんとん、ねりきり、大福、饅頭、羊羹など比較的水分量の多いものです。干菓子で主に使われるのは落雁、あられ、金平糖など水分量が少ないものです。どれも和菓子職人の技が光るものばかりで、特に茶道での和菓子は季節の趣を表現したものが使われます。それによって茶会でも和やかな雰囲気となりお茶を楽しむことができます。

まとめ

茶道の歴史と和菓子の発展を紐解くことで、茶道と和菓子はお互いに高め合って広まってきたものだということが分かります。茶道は作法ですのであまり身近なものではないかもしれませんが、普段でもお茶と和菓子をいただくときに少しでもこういった歴史を感じることができるとまたいいですね。