現在の大福餅は、餅ではなくて、求肥を使っているものがほとんどです。
それが証拠に、翌日になっても、硬くならない大福のなんと多いことでしょう。
今回は、大福餅の歴史をたどりながら、求肥と餅の違い、和菓子と砂糖の歴史を振り返ってみましょう。

目次

餅と求肥の違いとは 砂糖の有無

餅と求肥は、一見して、とてもよく似ています。
いちばんの違いは、餅は当日中でも硬くなりますが、求肥餅は数日たっても固くならないことです。
その違いを決めるのは、砂糖です。
求肥には、砂糖が練りこんであります。
そのために、デンプン分子の保湿力が上がり、いつまでたっても固くならないのです。

ですから、もちろん、製法も違います。
餅は、餅米を蒸し、米の粒がなくなるまでつくことで、粘りと柔らかさを獲得します。
一方の、求肥は、餅米を粉にしてから使うのです。
餅米を粉にしたものは、白玉粉または、餅粉と呼ばれます。
この餅粉に砂糖を加えて加熱して練ります。
または、蒸したりゆでたりした後、砂糖を加えて練り上げるのです。
そうすることで、硬くならない生地を作ったのが、求肥餅です。
ちなみに、餅は、容易に硬くなります。
一般的に、餅菓子は、火にあぶって食べるものでした。
大福餅も、香ばしく焼いて食べることが多かったのです。

ところが、実際の和菓子の世界では、餅が、いつのまにか求肥にとって代わることは多いのです。
たとえば、茶道の主菓子に使う、うぐいす餅。
その歴史は、16世紀まで遡ります。
1585年(天正13年)に、大和郡山での秀吉を招いての茶会のため、豊臣秀長が、出入りの菓子商人に作らせたものなのです。
菊屋治兵衛は、春まだ浅い、寒中の茶会のために、梅の枝に来るうぐいすをかたどった餅菓子を作りました。
それを気に入った秀吉から、うぐいす餅という名前をもらったのです。
現在も、奈良県の大和郡山市に「御城之口餅」の名前で残る、このお餅は、430年近い歴史がありますが、最初の形態は、求肥ではなく、お餅でした。
しかし、たとえば、現在の虎屋で製造している、上生菓子の、うぐいす餅は、求肥を使っています。

ですから、餅という名前だけでは、実際のお餅なのか、求肥なのかはわからないのです。

また、餅は冷たくすると、早く硬くなりますが、求肥は変わりません。
そのために、みつ豆やあんみつ、雪見だいふくのようにアイスクリームと合わせる際には、餅ではなく、求肥を使います。

餅の歴史

考古学的には、6世紀後半の古墳時代後期に、蒸し器の出土が増えています。
これは、それまで粉にして水に溶かして食べていたか、それをゆでていた米食の形態が、変わったことを示しています。
すなわち、粉食のみから、粒食もありに変わったことを示しているのです。
米を煮るのでなく、蒸してついて餅にするという新しい食べ方が生まれたということです。
ただし、餅という形は、日常の食事ではありませんでした。
稲作信仰と結びついて、祭祀の際のハレのお供え物という意味合いが強かったのです。
8世紀前半の『豊後国風土記』には、長者が、お餅を矢の的にして遊んだことから、神の助けを失い、没落したという話があります。
餅は、信仰の対象にもなっていたのです。
また、同じく8世紀前半の正倉院文書には、淡路国(淡路島)から、税として、大豆餅や小豆餅を納めさせたという記述があります。
宮廷など、貴族社会では、餅が食事に使われるようになっていたこともわかります。

餅の作り方

つき餅
・餅米を6〜8時間水に浸しておく
・米を布でくるみ、せいろで硬めの赤飯くらいの固さに蒸す
・布でくるんだまま、臼(うす)にとり、最初は粒をつぶして一体になるように圧しつける
・一体になってきたら、杵(きね)でつく
・手水を控え目にしないと、かびやすくなる

練り餅(団子)
・餅粉に湯を加え、練って餅のようにしたもの。
韓国などアジアでは、練り餅も餅と呼ぶが、日本では、正式には団子といっています。
しかし、作業が簡便なことから、のしもちであっても、実は練り餅であることも多くなってきました。
まして、和菓子の世界では、名物の餅菓子が、いつの間にか練り餅になっていることは、残念ながら多いのです。
練り餅は、粘り気やのど越しの柔らかさという面で、つき餅には明らかに劣ります。
したがって、練り餅のことを団子餅と呼び、一段、格の低いものとすることもあります。
そして、団子餅と求肥との違いは、まさに、砂糖が入っていないという点しかないのです。

求肥の歴史

求肥は、平安時代に遣唐使がもたらしました。
中国で祭祀の時に使われた牛脾糖(ぎゅうひとう)が原型とされています。
当時は、玄米で餅を作ったので、色が茶色っぽかったのです。
そこで、硬くならない牛脾糖は、牛の皮のように見えたので、牛皮と呼んだとのこと。
しかし、日本は肉食を忌む食文化であったので、牛という字を嫌い、柔らかさを強調した、求肥という字を当てたとされています。

求肥の作り方
水練り
・白玉粉や餅粉に水を加えてよく練り、そこへ砂糖や水飴を加えて、火にかけて練り上げる
茹で練り
・白玉粉や餅粉に水を加えて練ったものを茹でてから、砂糖などを加えてさらに練り上げる
蒸し練り
・白玉粉や餅粉に水を加えて練ったものを蒸してから、砂糖などを加えて練り上げる

求肥のバリエーション

羽二重餅…蒸し練りの手法で求肥を作り、水飴を加えて練り上げたもの。
ボンタンアメ…求肥に、水飴と文旦の果汁を練りこんだ飴。
並物の練り切り…簡便に、求肥で白あんを練ったものを、並物の練りきりといいます。
それに対して、上物の練りきりは、ヤマノイモやみじん粉(餅を乾燥させてから砕いて作った粉)で白あんを練って作ります。
うぐいす餅…求肥で餡をくるみ、黄な粉をふりかけたもの。
*平ゆべし…餅粉に砂糖とその他材料を混ぜて練り、蒸して作る菓子 
*参照:「ゆべしとは?柚子入り和菓子?柚子なし和菓子?」
雪見だいふく…求肥で、アイスクリームをくるんで作った菓子
すあま…上新粉(うるち米の粉)に砂糖を加え、熱いうちにつきあげて作る菓子

大福餅の歴史

大福餅は、室町時代には、ウズラ餅と呼ばれていたものです。
塩味の小豆餡を、餅でくるんだものです。
鳥のウズラのような形で、サイズもウズラくらい大きかったのです。
江戸時代に入っても、ウズラ餅とか、腹太餅と呼ばれました。
たいそう、腹持ちがよかったからです。
1771年(明和8年)に、江戸・小石川の未亡人おたよさんが、サイズを小さくしました。
そして、砂糖を加えたあんこの餅を作り、御福餅としたのが始まりです。
そのうちに、めでたい大福餅という名前が定着していきました。
しかし、第二次世界大戦後になるまで、砂糖は高級品でしたから、いぜんとして、塩だいふくが作られていました。
また、皮の餅も、砂糖を練りこむ求肥も、高級品でしたから、硬くなる餅の大福が普通だったのです。

砂糖の自由化について

1964年(昭和39年)に、蔗糖の輸入が自由化されました。
これによって、砂糖の価格は下落し、国民は心ゆくまで甘いものが食べられるようになったのです。
このことは、とても大きな開放感を製菓製パン業界にもたらしたのです。
神戸に本社を持つ、関西の製パン業、神戸屋では、砂糖の自由化を記念して、「サンミー」という菓子パンを作ったほどです。
「サンミー」は、長年にわたって、関西人のソウルフードとされたのです。

同じように、砂糖の価格が下がり、求肥餅は高級品ではなくなりました。
むしろ、硬くなりやすい餅の欠点を、安価に補える食材へと変化したのでした。

現在の大福餅

さて、現在、コンビニやスーパーで売られている、大福餅。
これらは、ほぼ100%、求肥餅を使った、硬くならない大福餅です。
今日では、高級な和菓子店や、老舗の和菓子店の大福だけが、翌日には硬くなる餅を使っています。
以前とは逆に、高級品が硬くなるという現象が起こっているのです。

大福餅に求肥が使われるようになった経緯を振り返ってみました。
ここにも、砂糖と和菓子の歴史が隠れていることを理解していただけたでしょうか。
そして、餅米で作る求肥と、うるち米で作る、すあまの違いも、頭の隅にとどめておいてください。