和菓子は室町時代に南蛮文化の影響を受けて大きく発展しますが、戦国時代になると素朴なものが主流となり、江戸時代に入って国が安定し始めると共に、和菓子も華やかな時代を迎えます。

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室町時代後期の和菓子

日本人とヨーロッパ人が出会うのは1543年にポルトガル人が種子島に漂着した時が最初です。彼らは南蛮人と呼ばれ、彼らが伝えた文化は南蛮文化、菓子は南蛮菓子と呼ばれます。
南蛮菓子の特徴のひとつは砂糖を大量に使用することです。当時の日本は砂糖を輸入に頼っていたので大変な貴重品でした。和菓子に砂糖がたくさん使われるようになったのは南蛮菓子の影響が大きいと思われます。また、それまでの日本人は鶏卵を食べる習慣はあまりありませんでしたが、南蛮菓子はたくさんの鶏卵を使っており、カステラや鶏卵素麺などの影響を受けながら、和菓子にも鶏卵を使うようになりました。

安土桃山・江戸時代前期の和菓子

南蛮文化が伝来したことを除くと、安土桃山から江戸初期にかけての菓子は素朴なものが多いのが特徴です。当時の茶会記録でも、餡餅や柿や栗や柘榴ほか果物や木の実、昆布やサザエなどと書かれていますし、江戸時代初期の菓子屋の販売記録にも饅頭・羊羹・落雁・高麗煎餅ほか、南蛮菓子ではカステラや有平糖、けさちいなの記載があります。華やかではありませんが、素朴な和菓子が伝わった時代といえるでしょう。

江戸時代中期の和菓子

江戸時代は長期にわたって平和が続き、社会が安定して経済も発展しました。そして17世紀後半になると、華やかな元禄文化が展開され、和菓子もこの時代に京都で開花します。元禄時代には菓子に意匠を凝らし、「古今集」などの古典文学から着想を得た雅な銘が付けられるようになりました。菓子を視覚である意匠と聴覚である銘で味わうようになり、彩色で描かれたそれらの姿は、菓銘を付した菓子絵図帳(見本帳)によって現在に伝わっています。
これらの菓子は高価な白砂糖を使った高級菓子ということで上菓子と呼ばれますが、京都で生まれたので京菓子ともいいます。
江戸時代中期まで、酒や醤油、塩、油、呉服など、上等な品物は上方から江戸へ伝わり、これを「下り物」と呼びましたが菓子も同様で、元禄時代に大成した上菓子は同時期の江戸で既に別格の存在でした。京菓子は早い時期から全国に広がり、江戸幕府では行事や贈答、茶の湯や饗宴、あるいは当主の妻を中心とした「奥」などで大量の上菓子が使われました。京菓子屋はまずは江戸に進出し、ついで200を超える各地の城下町にも広まりました。
武家と菓子の関わりとして、6月16日には嘉祥の儀式が江戸城で行われました。江戸城の大広間に羊羹や饅頭などの菓子が並べられ、将軍から大名や旗本に菓子が下されます。その数は二万個を超えており、江戸市中の上菓子屋が連携して作りました。大名たちも藩邸に戻ると家臣を集め、改めて嘉祥を行いました。ここでは各大名の家出入りの菓子屋が菓子を納めました。嘉祥は明治以降は廃れましたが、全国和菓子組合により、昭和54年より6月16日は「和菓子の日」とされています。
幕府をはじめ大名や旗本などの菓子の需要を支えていたのが上菓子屋で、「御用」という形で武家と結びついていました。江戸にはたくさんの上菓子屋がありましたが、次第に地方出身の菓子屋も増え、その中には幕府の御用を務めるものもいました。そして江戸風の上菓子も作られるようになっていったと言われています。