有平糖とは、砂糖を煮詰めて作った飴菓子の一種です。ポルトガルの宣教師により、金平糖と並んで戦国時代の日本に初めて輸入されたハードキャンディーと呼ばれています。主に献上品として用いられた南蛮菓子のひとつです。
ここでは有平糖の歴史を御紹介します。

目次

砂糖の歴史と有平糖

砂糖の歴史は長く紀元前8000年から1500年には、既にサトウキビから砂糖が製造されていた記録があります。日本では8世紀に唐の僧であった鑑真が砂糖を持参したと言われています。貴重な砂糖は当初は薬として扱われていましたが、15世紀半ばの茶の湯の文化の発展と共に和菓子に用いられるようになりました。1549年、ポルトガルの宣教師であるフランシスコ・ザビエルが来日したのは織田信長が15歳の時です。翌年から日明貿易が盛んになり砂糖菓子も頻繁に輸入されるようになりましたが、それでも砂糖は高価なもので上流階級の人しか口にすることができなかったようです。1569年にポルトガル語宣教師であるルイス・フロイスが織田信長に金平糖を献上したのは有名か話です。室町時代の終わりから安土桃山時代へと向かう戦国の世は有平糖が出現する時代の始まりとも言えます。

安土桃山時代に登場する有平糖

有平糖の語源はポルトガル語でアルフェロア、糖蜜から作られた茶色い棒状の菓子という意味です。この菓子の製法はなかなか伝えられず、南蛮菓子のひとつとして大名や権利者に献上されてきました。全国に広まっていったのは、のちに長崎で製法技術の開発を行なったためです。一方で宣教師たちはアルヘイトウを使って布教活動をしていたのではないかと噂されていたことが伝わっています。

豊臣秀吉と有平糖

1590年、天下統一を果たし、豊臣秀吉は日本の各地を平定します。織田信長亡き後も各地の大名たちの間では茶の湯の文化が浸透しており、ここに千利休が登場します。彼は茶の菓子も簡単な煎餅などを用いていました。反対に秀吉は、華麗で優美な茶を楽しむことで有名であったため有平糖も盛んに用いられたこととされています。

江戸時代初期は静かに愛された有平糖

徳川家康が江戸に幕府を開いた6年後、奄美大島で黒砂糖の製造に成功し、国産の砂糖が誕生しますが、依然として庶民の口には入りませんでした。有平糖もまた、京都や一部の茶人たちにのみ静かに愛され続けていました。

華やかに発展する元禄時代の和菓子と有平糖

江戸時代最大の華やかな元禄期を迎えると、この頃には多くの文化人や茶人が現われ、有平糖も多くの人々の口に入るようになって行きました。季節ものや縁起ものなど、細工も手が込み、技の競い合いになっていきます。

江戸時代中期から後期の有平糖

江戸時代中期に入ると安価な質の悪い水飴などが出回るようになり、後期には度重なる飢饉が起こり徐々に茶人も減り、茶菓子としての有平糖も勢いを失います。この頃、神社や寺の近辺でねじり棒細工程度の土産品の有平糖が売られていたとも言われています。

江戸時代後期から現代の有平糖

幕末の動乱を経て明治となり、周りの物が西洋化する中、黙々と技術を磨いてきた菓子職人の細工は芸術の域に達するも、中々商売にはなりませんでした。結婚式や御祝いの引き出物の一つとして喜ばれるものが作られ、現在も地域によってはその伝統が存在するところもあるそうです。有平糖と聞いて現在最も身近に思い出せるのは、「榮太樓本舗」の「梅ぼ志飴」です。有平糖本来の黄金色と、ベニバナから採った赤い色素を練りこんだ赤い飴で、製法の過程でシワが寄って見た目が梅干しに似ているとのことでこの名がつきました。梅ぼ志飴はドロップやキャンディとは製法が異なり、純度の高い良質の砂糖を溶かして糖蜜を作り、これを高温の直火で短時間加熱、濃縮し、急激に冷やして飴にします。独特のコクは砂糖本来が生み出すものであり、歯切れよく軽やかに噛みくだくことができるのも純度の高い砂糖を使っているからです。

普段あまり馴染みのない有平糖ですが、有平糖の飴細工は大切にしていきたい日本の伝統の技のひとつであり、今回は有平糖の歴史を御紹介させていただきました。
これからの更なる発展を願って止みません。