私たちがとらやと聞いて真っ先に思い出すのは、何と言っても羊羹ではないでしょうか。
中でも小豆を梅に見立てた小倉羊羹「夜の梅」は、そのネーミングのセンスの良さといい、深い味わいといい、羊羹の王様と言っても過言ではないと思います。
そんな日本の代表的な和菓子の老舗であるとらやは、450年ほど前の後陽成天皇のころから宮中にお菓子を納めていた由緒正しき和菓子店です。
ここでは、宮中で花開いたとらやの菓子について御紹介します。

御所のお祝いごとに用いられた和菓子

京都の和菓子の中でも、もてなしに使う上等な菓子は上菓子といわれ、他の菓子にはない雅さがありました。その理由の一つに宮中との深いつながりがあります。
江戸中期になるまで、砂糖は高価な輸入品であり、特に上等な白砂糖を使った和菓子を味わえるのは天皇や貴族など一握りの上流の人々でした。宮中の元旦や天皇の即位、婚礼や誕生など、祝いの席に和菓子は欠かせないものでした。
宮中の御用を賜るのは、ごく限られた一部の上菓子屋だけであり、とらやは後陽成天皇のころから宮中にお菓子を納めていました。その注文記録は今も残っています。
「行幸御菓子渡帳」は慶安4年、後光明天皇の時のもので、椿餅などの菓子の注文の記録が読み取れます。
元禄11年に作られたと伝わる青貝の井籠も残っています。ふたの表と側面前後に虎、側面左右に雪持笹紋、全体に亀甲花菱に鱗紋を組み合わせた文様が青貝で施されています。
大変に贅沢で美しいものですが、これは菓子を納めるための「お通い箱」です。和菓子は御所や茶の湯などとの繋がりを経て雅なものになっていきます。

幸福を願って頂く百味菓子

天皇や上皇や公家が厄除け、招福の願いを込めて作らせたのが百味菓子(百種類の菓子)です。1812年、光格天皇にとらやが納めた「百味菓子」の内訳は、干菓子50個、生菓子23個、棹菓子22個、これに梅干しや鯛を加えて100個、1段にそれぞれ20個で、5段重ねの「百味箱」を使用しました。
それぞれの菓子は現在の菓子の3倍くらい大きく、富士山や菊など、めでたい意匠も見られます。

元禄時代の京都の和菓子文化

和菓子の文化が大きく花開いたのは元禄文化華やかな京都です。当時京都では尾形光琳、近松門左衛門、伊藤仁斎など、多くの文人が活躍していましたが、そうした時代の影響を受け、和菓子もそれまでとは異なる華やかで美しいものに変化します。季節の植物や行事などに題材を求め、「源氏物語」や「古今和歌集」などの文学作品にちなんだ菓銘がつけられるようになりました。
とらやに伝わる元禄8年の菓子絵図帳は、しっかりと製本され、菓子の姿が絵の具で彩色されています。これは得意先に届けられ、注文の参考にされたもので、同時に後世の記録として残すという意味合いもあったようです。
驚くのは、その意匠のモダンさと色の取り合わせの新しさです。技術的にも、棹物で水の流れを表現するなど、非常に高いものがあります。

元禄8年の菓子絵図帳より
なすび餅
外良(ういろう)製で、丸い白なすをかたどった菓子で白餡に混ぜた黒胡麻の風味が楽しめます。
水山吹
薯蕷製で、上下の黄色は咲き乱れる山吹を、中段の黒は川の流れを表しています。
伊勢桜
薯蕷製または温粉製で、全体を薄紅色に染め、風に舞う桜の花びらを小豆で表現しています。