榮太樓總本舗の初代は、日本橋西河岸で近くの魚河岸に来る客を相手に、屋台で焼きたての金鍔を売っていましたが、安政4年(1857年)、念願の独立店を開いたのが、現在の榮太樓ビルの地になります。
金鍔、甘名納糖、梅ぼ志飴など、庶民のための和菓子を作り続ける榮太樓總本舗の歩みを御紹介します。

金鍔の登場

金鍔が初めて登場したのは享保年間(1716〜1735年)といわれています。京都に、うるち米の一種で小豆あんを包んで焼いた菓子があり、表面が白っぽいので銀鍔と呼ばれていましたが、これが江戸に伝わって、小麦粉の種で焼き色をつけたものに変わりました。形が刀の鍔に似ており、銀より金が上とのことで金鍔になりました。文化・文政年間(1804~1829年)の江戸文化爛熟期には金鍔が大人気となり、吉原の遊女の間でも「年季増しても食べたいものは、土手の金鍔、さつまいも」という歌が流行っています。

榮太樓總本舗の金鍔

江戸の品物は川や掘割と呼ばれる水路で運ばれていました。荷は河岸と呼ばれる市場に上がりますが、もっとも繁盛していたのが日本橋の魚河岸でした。
榮太樓總本舗の創設者である三代目細田安兵衛(幼名は栄太郎)は、この魚河岸に来る客を相手に商売をしていました。親孝行で真面目な仕事ぶりが評判となり、助けてくれる人も現れます。独立にあたっては屋号を幼名にちなんで榮太樓としました。榮太樓總本舗の金鍔は小麦粉の種であんを包んで丸く形を作ります。よく見かける四角く切って小麦粉を溶いた種にくぐらせるものとは違います。しかし、金鍔の名の由来は刀の鍔なのですから、榮太樓總本舗のように丸く平べったいものが本来の姿のはずです。種で包むので餡を寒天で固める必要がなく、瑞々しい味わいです。また鉄板で胡麻油を敷いて焼くので香ばしくなります。

新しい和菓子の開発

初代が創製したお菓子に「甘名納糖」と「玉だれ」があります。
甘名納糖は江戸末期の頃、これからの時代は、生菓子のように保存が効かず、量産も出来ないものだけを売っていてはいけないと考えて誕生したものです。当時、赤飯に用いる以外に利用価値のなかった安価な金時大角(きんときささげを蜜煮にしました。知人から「遠州浜松に浜名納豆があるから、それをもじって甘名納糖はどうだ」と言われてこの名になりました。
現在はさまざまな素材で甘納豆が作られていますが、すべては甘名納糖が元祖です。榮太樓總本舗では現在では高価になってしまった金時大角豆を今も使い続けています。
玉だれは明治10年に開発されました。わさび風味のあんを白い求肥に包んだものです。わさびを和菓子に使うセンスが流石です。涼しげな彩りが夏の茶菓子に喜ばれます。
常に新しい味を追求していたであろう初代の和菓子に対する並々ならぬ情熱と愛情を感じるお菓子です。

高価な有平糖を庶民に人気の味に

南蛮菓子の有平糖は茶席菓子に使われる高価な菓子でしたが、これを庶民も味わえる菓子にしたのが明治の初めに初代が開発した「梅ぼし志飴」です。有平糖本来の黄金色と、ベニバナから採った赤い色素を練りこんだ赤い飴で、その艶やかな透明感とコロンとした三角形は、1857年の発売当初から人気を博しました。当時の製法は棒状に伸ばした飴を一口大に切り、切り口を指先でつまんでいましたが、その際に飴に縒るシワが梅干しのシワに似ているということから命名されました。のちの時代に黒糖、抹茶、紅茶風味も加わります。
梅ぼ志飴は純度の高い砂糖を使うため歯切れがよく、カリカリと固いですが軽やかに噛みくだくことができ、口の中が荒れません。
常に食べる人のことを考えて菓子作りを行ってきた初代の工夫が詰まった飴であるといえるでしょう。