さて、みなさんは、和菓子という言葉を耳にすると、どんなお菓子を思い浮かべられるでしょうか。
和菓子とはなにか、その歴史を探っていきましょう。
『和菓子の好きなものアンケート』(2015年12月マイボイスコム調べ)によると、日本人の好きな和菓子は、①大福もち②たい焼き・今川焼など③カステラ④団子⑤おはぎ・ぼた餅となっています。
これが、和菓子と聞くと、日本人が、まず思い浮かべるものなのだと思われます。
こちらは、日常のお茶菓子としての和菓子でしょう。
しかし、その一方で、和菓子と言えば、より伝統的なものという考え方もあります。
たとえば、2013年には、和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたことはご存じでしょうか。
それ以降、和菓子と日本茶にも、世界の注目が集まっています。
こういう時の和菓子は、日本の伝統文化を形作るお菓子で、茶道との関係が深いのです。
両極端といっては何ですが、和菓子という言葉で表されるものは、シュチュエーションで決まる、といってもよいのかもしれません。

和菓子の定義とは?

では、和菓子とはいったい何なのでしょうか。
実は、日本が開国した明治以降、西洋菓子が大量に日本に入ってきて、お菓子としてのバリエーションも、たくさん考案されていきました。
たとえば、明治時代の鳩サブレ、あんパンなど。
こういうお菓子は、いったい和菓子なのでしょうか。
それとも洋菓子でしょうか。
南蛮菓子のカステラだって、和菓子でしょうか、西洋菓子なのでしょうか。
境界線が、明確ではありません。
そこで、大正時代末期に、「和菓子とは、西洋菓子でない、我が国のお菓子すべて」という定義ができました。
いや、むしろ現代では、「西洋のオリジナル菓子を除く、すべての日本のお菓子が和菓子」と呼べるように思われます。
それにしても、奥が深い和菓子の世界。今回は、和菓子の歴史をたどりながら、その実態を解き明かしていきましょう。
「菓子」という言葉の元の意味は、現在の生の果物を表す水菓子(みずがし)です。
食事以外として、自然界にある甘みのある食物を食べたのが、お菓子の始まりと考えられています。
では、菓子の歴史を古代からご紹介してまいります。

和菓子の起源は自然界の甘いもの

最初のお菓子は、くだものや、木の実が起源です。
なお、縄文弥生時代には、早くも、せんべいの原型や、赤米から作った餅の原型も登場しています。
しかし、あくまでも供え物や食料としてなのです。
登呂遺跡から出土した、せんべいは、芋や栗の粉を薄くのばして焼いたものです。
また、餅や団子の起源となる、穀物からつくる菓子の原型も、神聖な供え物として登場しています。
ところで、甘いものといえば、今の時代で最初に思い浮かぶのは、砂糖でしょう。
そこで、ここからは、砂糖との関係を切り口にして、和菓子の歴史をご紹介いたします。

砂糖と和菓子

砂糖は、約2,500年前に南太平洋の島々でサトウキビが発見され、インドで発展したといわれています。
しかし、正倉院御物の中に砂糖の記述はありますが、高貴薬の扱いです。
日本にある程度まとまった量の砂糖が入ってきたのは、遣唐使を通じてでした。
日常の甘味料としては、ツタなどの木の樹液を採集して煮詰めた甘葛(あまづら)などが、貴族の間だけで珍重されていたのです。
奈良時代の砂糖の伝来以後も、砂糖の入ったお菓子が、庶民の暮らしの中に気軽に入ってくるのには、19世紀の江戸時代末期を待たなければなりません。
では、砂糖と和菓子の歴史を見てまいりましょう。

唐菓子の伝来-奈良・平安のお菓子

奈良時代から行われた遣唐使のもたらしたものに、唐菓子(からがし)があります。
それまでの日本の菓子には使わなかった、①小麦粉②砂糖③小豆を使い、蒸したり焼いたり、揚げ物などにしたお菓子です。
これら小麦粉と砂糖と小豆という3つの材料が導入されたことは、現代のたい焼きにもつながる、和菓子の歴史上の一大事件です。
また、平安前期の記録に残る、椿餅は、中国から伝来したものではないといわれています。
主な材料は、日本古来の椿の葉と道明寺粉。小豆の餡を入れます。
枕草子や源氏物語にも登場する、この椿餅を日本最初の和菓子と考ええることができるでしょう。

茶の伝来と平安・鎌倉時代の和菓子

最澄(伝教大師)は、9世紀に遣唐使として中国に渡られ、天台宗を開かれました。
そのとき、茶の種を持ち帰られ、茶を飲む習慣と方法をもたらされたといわれています。
これが、日本への茶の伝来です。
しかし、茶は、宗教的に使う、貴重な薬としての位置づけで、まだ、お菓子との関係は始まっていません。
現在のお抹茶のような、粉茶を日本にもたらしたのは、鎌倉時代の12世紀後半に、禅宗を南宗から伝え、臨済宗を開かれた栄西禅師です。
現在の茶道の濃茶の始まりは、この粉茶を茶筅で練る、宋代の点茶法(てんさほう)であるといわれます。
このとき、喫茶とともに食す点心(てんじん)も伝えられ、これが今の羊羹(ようかん)や饅頭(まんじゅう)の起源です。
茶道とともに発展した、日本の和菓子の伝統の始まりがここにあります。
点心とは、肉を使った軽食です。
たとえば、オリジナルの羊羹は、なんと、羊肉のスープだったのです。
しかし、肉食を嫌った日本では、小麦や小豆を使って、喫茶の点心を作りました。
塩味のものです。
時代が進むうちに、砂糖も用いられるようになりました。

室町文化と和菓子

鎌倉時代の点茶の点心として発達した和菓子は、室町時代に入ると、武家社会への禅宗の広がりとともに、普及していきます。
日明貿易によって、お菓子の落雁(らくがん)が中国から伝来したのも、この時期です。
足利将軍家が、寺院の僧侶を招き、甘い蒸し羊羹(寒天を使った練り羊羹は、江戸後期)を供した記録もあります。
したがって、室町時代には、甘い和菓子が見られるようになったといえます。
そして、狂言の『附子(ぶす)』にあるように、庶民も砂糖の存在を知るようになっていました。

南蛮貿易・中国貿易・薩摩の琉球貿易と和菓子

戦国時代の末期、すなわち16世紀の末の1543年(1542年説あり)には、ポルトガルから鉄砲が日本に入ってきました
。さらに、1545年には、スペイン人のザビエルによって、キリスト教も伝えられました。
こういった南蛮の文物とともに伝来したのが、いわゆる南蛮菓子です。
おもなものに、金平糖(こんぺいとう)、有平糖(あるへいとう)、カステラ、ボウロなどがあります。
金平糖や有平糖は、のちに、千利休のはじめた侘茶(わびちゃ)から発展した茶道につかう、干菓子(ひがし)として定着していきます。
また、カステラは、カステラとして食べられただけではありません。明治時代になってから、今川焼にカステラ生地を用いて、たい焼きが生まれました。
さらに、どら焼きも、平安末期に武蔵坊弁慶が作ったものは、小麦のおやきの皮でした。
ところが、明治に入って、どら焼きにカステラ生地を使うようになって発展するなど、カステラは、和菓子の世界に大きな影響を与えています。
もうひとつ、カステラなどの南蛮菓子は、和菓子に鶏卵を使う工夫を伝えた点でも、大きく評価できるのです。
そして、この時期には、庶民のための餅菓子も作られ始めました。
たとえば、天正三年(1575年)創業の、伊勢の『二軒茶屋餅』。
伊勢神宮は、20年に一度の式年遷宮をおこなって社殿を建て替えるため、神宮の周辺は、常に物流のセンターでもありました。
その中心に位置する大湊で作られたのが、『二軒茶屋餅』です。
平たい形にまとめた餡(あん)入りの餅に、黄な粉をまぶして風味をきかせています。
最初の『二軒茶屋餅』は、黒砂糖の餡でした。貴族でもなく、上流町民でもない庶民が口にした和菓子としては、先駆け的存在ではないかと思われます。
こういった和菓子の流れは、京都の寺社の門前町の茶屋菓子であるとか、街道筋の茶屋の菓子にみられます。
働く庶民のおやつとしての大福もちなどの発展につながる系統です。

茶道と和菓子

さて、江戸時代のオランダとの南蛮貿易や、清国との貿易船は、砂糖を船倉に積んで日本にやってきたため、日本の砂糖の輸入量は飛躍的に伸びました。
そして、17世紀末から18世紀にかけての元禄文化期には、京菓子が発展していきます。

茶の湯の隆盛と京菓子の発展

元禄時代には、京都の高級文化サロンで、茶道の礎が完成しました。
表千家・裏千家・武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)が、千家三代の宗旦から分かれて隆盛していったのを、宗旦流の茶と呼びます。
こうして、武家や公家、上流の町民階級に、茶の湯が浸透していったのです。
そこでは、庶民の手には入らない高級品として、砂糖が使われる和菓子が発展していきました。
とくに濃茶手前に使う、主菓子(おもがし)が完成していきます。
主菓子とは、今でいう上生菓子(じょうなまがし)が主流です。
この「上」という字は、たんに優れているという意味ではありません。
宮廷に献上する菓子という意味の「上」からとられています。
本当の上生菓子を調製することができたのは、最初は京都の菓子司(かしつかさ)と呼ばれる、宮中御用達の菓子舗だけでした。
たとえば、有名な『とらや』は、室町時代の創業で、戦国時代から御所の御用を務め、明治二年の東京遷都に伴って、はじめて関東に進出したのです。

茶席の和菓子の完成

では、現代のお茶席にも通じる、和菓子についてまとめておきます。
①干菓子 薄茶(うすちゃ)とともにいただくもの。
形から見て、落雁、有平糖、せんべい(利休のふの焼の流れ)、焼き八つ橋などの種類があります。
②主菓子 濃茶(こいちゃ)とともにいただくもの。
きんとん、こなし、練り切り、饅頭、焼き物、水菓子、蒸し物、羊羹などの種類があります。
上生菓子には、かならず菓銘(かめい)があり、季節感や行事や古典などのテーマをあらわしています。
有名な『花衣(はなごろも)』は、梅または、桜の花をかたどっています。
『唐衣(からころも)』は、在原業平の和歌『唐ころもきつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞおもふ』から、カキツバタの花を表しています。
菓銘のテーマは、そのお茶会のテーマでもあるのです。
このように、教養を楽しみ、五感を使って、主と客が一期一会の時間を共にするお茶席の花のひとつが、和菓子であるといえましょう。
また、日持ちの面から種類を分けますと、①当日中に食べるのが良い朝生菓子(餅類、饅頭)②多少、日持ちがして風味も増すもの。
すなわち、こなしや練り切り、きんとん③日持ちのする羊羹のようにも分類が可能です。
朝菓子を、一段、低く見る考え方もありますが、必ずしもあたりません。
薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)などは、格の高いお菓子なのです。

国産砂糖 和三盆の普及と大名菓子の成立

18世紀にはいると、四国の高松藩や徳島藩で、サトウキビの栽培と和三盆糖(わさんぼんとう)の生産が始まります。
このことと、日本三大銘菓の発展は、けっして無関係ではありません。
ちなみに、日本三大銘菓は、『長生殿』『越乃雪』および『山川』です。
いずれも大名の贈答菓子であり、茶の湯の薄茶席のお菓子として使われる、落雁のお菓子です。
たとえば、加賀(現富山県)の『長生殿』は、17世紀の加賀藩の製菓業の奨励政策によって考案されました。
もともと、落雁は兵糧としても使われていたのです。
また、越後(現新潟県)の『越乃雪』は、18世紀の長岡藩9代藩主・牧野忠精公(ただきよこう)のお声がかりです。
さらに19世紀に入って、出雲(現島根県)の『山川』は、自身が不昧流の茶道の祖となられた松平不昧公(ふまいこう、または本名治郷公:はるさとこう)が、自ら考案して作らせたもの。
これら、日本三大銘菓の発展は、参勤交代による諸藩の交際と、国内で砂糖の流通が盛んになったことと大きな関連があります。

江戸時代の庶民のお菓子

江戸時代初期から、武家の参勤交代で、五街道などの交通制度が整えられました。
また、商業の発達や、伊勢参りなどの流行により、庶民が国内を移動することも多くなりました。
そこで、交通の要路には、腹持ちの良い名物餅が発達していきます。

17世紀から18世紀の庶民の和菓子

名物餅の古いところでは、東海道の四日市宿の『なが餅』があります。
こちらは、16世紀半ば、戦国時代の発祥で、かの藤堂高虎の好みの菓子でした。
また、17世紀の有名なものでは、東海道・静岡府中宿の『安倍川餅』があげられます。
徳川家康が安倍川の岸辺の茶屋に寄った時に献上したものです。
貴重な白砂糖を使った、高価なお菓子(5文)でした。
18世紀の庶民のお菓子の一例として、『大福もち』の歴史を紹介しておきます。
大福は、江戸初頭の17世紀には、『うずら餅』と呼ばれていたものです。
ウズラの成鳥をかたどった大きな餅で、腹持ちがいいので、『腹太餅』と称されるようになりました。
塩餡でした。
18世紀半ばに、江戸・小石川の未亡人が、そのサイズを小さくし、『大腹もち』としましたが、次第に字面の良い、『大福もち』と呼ばれるようになりました。
小豆にはビタミンBが含まれて、疲労回復にもよいのです。
しかし、砂糖を使うと高価になるので、昭和になっても、塩餡の大福がつくられていました。
18世紀には、長命寺の門前で、関東風の桜餅も考案されています。
なお、道明寺粉を使う、関西風のものは19世紀の考案です。

和菓子の大衆化明治から現在まで

さて、日清戦争以後、日本領となった台湾や南洋の島々で、砂糖の生産がさかんになり、砂糖は庶民にも身近なものへと変貌していきます。
それでも、庶民が、本当に気軽に甘いお菓子を楽しめるようになったのは、第二次世界大戦後の、混乱がおさまってからでした。

甘いお菓子の普及

また、軍隊の補給食として、キャラメルやチョコレートが導入され、庶民にも知られていきました。
これらも、和製のお菓子という点で、広い意味の和菓子に含めることができます。
そして、西洋から新しいお菓子が紹介されたことで、羊羹をカステラ生地ではさんだシベリアなど、和洋折衷のお菓子も考案されていきます。
シベリアは、明治末期から大正にかけて、どこのパン屋でも作っていたという記録があります。
また、せんべいにも、従来の和風の味付けだけではなく、サラダ油を使った、サラダ味なども考案されました。
たい焼きは明治期に今川焼から作られましたし、どら焼きの老舗は、大正期の創業が多いようです。
砂糖との関係では、昭和時代の太平洋戦争が終わってしばらくするまでは、大福やおはぎなどは、依然として高価な砂糖をさけ、塩餡で作られることも多かったようです。
また、いちご大福は、20世紀末と、わりあいに近年の創作ですが、生クリームと生のイチゴを餡とともに餅皮で包んでいて、洋菓子の影響を多大に受けています。
駄菓子やスナックの世界でも、日本のオリジナル菓子は、世界で人気です。
たとえば、イタリアのプレッツェルから考案した『プリッツ』やチョコレートコーティングの『ポッキー』は、アジア圏でも人気です。
これらを西洋菓子とは呼びません。
こうしてみると、和菓子とは、まさに「西洋のオリジナル菓子を除く、すべての日本のお菓子」ともいえるでしょう。
砂糖という観点を切り口として、和菓子の歴史を一通り見てまいりました。次は、日本独自の喫茶の習慣に触れ、和菓子の歴史のご紹介のまとめにいたします。

和菓子のある暮らし

和菓子の発達と、砂糖やお茶との歴史的つながりを中心にご紹介してきました。
日本のお茶の習慣は、食事とは独立して育ってきたといえます。
西洋では、主として、お菓子は、食後のデザートとして発達しました。
イギリスのティーの習慣も、軽い食事としての性格が強く、その点で、中国の点心の習慣と似ています。
一方、日本のお菓子は、茶の湯の文化とあいまって、一服する習慣、一休みして甘いものを楽しむ習慣とともにあるといえましょう。
洋菓子よりも、ひとつが低カロリーで、リラックスと笑顔を運ぶお茶と和菓子。
このように、素敵な日本文化をこれからも伝えていきたいものです。