尾張藩は愛知県西部の尾張、美濃、三河、信濃を治めていました。初代藩主は家康の九男である義直で、徳川御三家の中でも筆頭格の大大名でした。
尾張徳川家の御菓子御用を務めていたのが両口屋是清です。1686年、二代藩主である徳川光友より「御菓子所両口屋是清」という直筆の表看板を賜りました。
尾張徳川家と共に歩んだ両口屋是清の今と昔の魅力を探ります。

口伝の紅白梅糖と嘉祥

両口屋是清には大名家に御菓子を届ける時に使っていた「通筥(かよいはこ)」が伝わっています。葵の御紋が入った美しい五段重ねの重箱で、口伝に倣い「紅白梅糖」を詰めました。ひとつが現在のお菓子の二倍以上の大きさでした。1人で味わうのではなく家臣たちに振る舞われたものなのでしょう。
お菓子を振る舞うといえば6月16日の嘉祥があります。これは江戸時代に武家も庶民も問わず盛んに行われていました。幕府では江戸城の大広間に約2万個の菓子を並べ、将軍から大名・旗本に与えたと記録されています。大名や旗本は、将軍から頂いた菓子は大切に持ち帰り、家臣にお裾分けしたことでしょう。

広く親しまれた茶の湯

名古屋は茶の湯が盛んな土地であり、戦前まで、農家の人も畑仕事の合間に抹茶を点てお菓子を食べる習慣がありました。茶の湯という教養が、広く人々に浸透していたのがうかがえます。
慶長12年、徳川義直が清洲城から名古屋城に移り尾張藩が生まれると、商人たちは徳川御三家最大の藩という誇りを胸に、町づくりに尽力します。そして江戸や京都にはない独自の文化を作ろうとしました。そのひとつが茶の湯です。享保5年、家元を京より定期的に呼び寄せ、千家茶道を学ぶようになります。このような文化的な試みは7代藩主徳川宗春の時代に最も盛んになり、8代将軍吉宗の倹約策とは対照的な宗春の施政は注目を浴びました。宗春は金糸で飾った虎の陣羽織を着て名古屋入府したとか、祭り好きで京都からからくり職人を多数招き、からくりを乗せた山車を作らせたとか、宗春のエピソードは枚挙に暇がありません。この頃、松尾流という流派が生まれ、尾張が育てた独自の文化が花開きます。

茶人に鍛えられる菓子職人

すぐれた茶人がいるところ、いい茶席菓子が生まれます。こんな菓子が欲しい、こういうものは作れないか、という妥協のない茶人の注文があって、それに応えようと職人が励む姿勢は、昔も今も変わりません。
両口屋是清の菓子職人を鍛えたのも、そうした茶人たちです。まだ若い頃、茶人より、作ったことのない難しい菓子の注文を受け、聞き返すことができず、かと言って無理ですとも言えず、それから毎日寝ても覚めても考え続け、何度試作してもうまくいかず、親戚の法事も欠席し、期日が迫って切羽詰まった時に、ハッと閃きなんとか作り上げることができたそうです。
今、若い職人たちには技術を習得するだけではなく、1日ひとつでいいから和歌を覚えなさいと伝えているそうです。茶会や茶事では、歌に合わせて菓子を考えることもあり、古典や歴史、歳時記など、幅広い知識がなければ菓子は形だけのものになってしまいます。鞄の中には何度も読み直してボロボロになった和歌の本がいつも入っているそうです。