堺市と和菓子。
二つの間にどういうつながりがあるのか、一瞬、考えてしまいました。
しかし、堺は、あの茶道の千利休のふるさとです。
きっとお菓子にも縁があるに違いありません。
そして、砂糖が伝わった、ルソンとの貿易の拠点港でもありました。
和菓子にとって、大変に重要な町なのです。

第2回堺W-1(和菓子)グランプリ~堺の和菓子を食べつくす~

堺 W-1(和菓子ワン)グランプリというのを、聞いたことがありますか。
堺市の『さかい利晶の杜(りしょうのもり)』で、2017年から、毎年、秋に行われる、和菓子の祭典です。
今年の2018年は、第2回が、11月3日に『さかい利晶の杜』で開催されます。

ところで、利と晶が何を示しているか、お気づきですか。
実は、堺市出身の、千利休の利と与謝野晶子の晶からきているのです。
『さかい利晶の杜』は、堺市にある博物館。
千利休と茶道とお菓子の展示と、与謝野晶子記念館なのです。

2018年11月3日に、堺市の『利晶の杜』で開催される、和菓子グランプリ。
地元の老舗和菓子店の販売と、茶道の実演、お茶をたてる茶筅(ちゃせん)ふり体験、和菓子作りの体験ができます。
とくに、表千家・裏千家・武者小路千家の、三千家が一緒に同じ場所でお茶をたてる催しは、日本全国を探しても、ほかにはないでしょう。
利休のふるさとだから、できるイベントです。
和菓子とお茶が好きな方は、2018年の文化の日は、堺市へ行ってください。
チケットで、参加者数を決めています。
前売り券は完売しました。
当日朝9時からの、当日券も、すぐに完売しそうないきおいです。

さて、今回は、わび茶の祖、千利休を生んだ堺市と和菓子の関係をお伝えします。
もちろん、堺ならではの和菓子の老舗もご紹介してまいります。

東洋のベニス堺と和菓子

大阪府の堺市は、戦国時代以前から、中国やルソンとの貿易で栄えた港町です。
また、堺は、日本の近代の茶道の祖、侘茶の祖である、千利休のふるさとです。
利休だけではありません。
利休とともに、織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を発展させた人々も、堺の商人が多いのです。
茶道は、ある意味では、商都・堺の外交を担っていたともいえます。
こんなに、茶道と関係の深い町ですから、和菓子の老舗(しにせ)もたくさんあります。
いちばん古い、(株)かん袋は、1329年の創業なのです。
なんと鎌倉幕府が倒れる、4年前の創業になります。

堺に古くからお菓子が発達した理由

さて、堺市最古の和菓子の老舗が、14世紀の鎌倉時代末期に創業されたのはなぜでしょうか。
なにしろ、京都の老舗でも、戦国時代を生き抜いたお店は、多くはありません。
それなのに、堺の老舗は戦国時代にも開店していて、今も続いています。

ひとつの理由は、堺が、古くから栄えた港町であったことです。
古今和歌集を編集した、10世紀の歌人、紀貫之も堺に来ました。
『土佐日記』の中では、堺を『いしづ』として、触れています。
室町時代から戦国時代には、日宗貿易や遣明船の拠点でした。
国内のあらそいを離れた、町だったのですね。

さらにもうひとつの理由。
それは、群雄割拠の戦国時代に、堺が、大名の支配する町ではなかったことです。
堺は、町衆と呼ばれた大商人たちの自治都市でした。
東洋のベニスといわれるゆえんです。
ですから、戦国時代に入っても、堺は戦火で焼かれませんでした。
堺が燃えたのは、大坂夏の陣で、豊臣家が滅びた翌年です。
つまり、江戸幕府の地盤が固まった時、商人の自治都市は、焼け落ちたのでした。

戦国時代の堺は、日本のほかの地方と違っていました。
まったく衰えることなく、むしろ日明貿易で栄えていたのです。
そのころは、京都でさえ、戦に荒れ果てていたのに、です。
そして、17世紀には、ルソンとの交易の港になりました。
そのルソンから、砂糖は入ってきたのです。
ここに、和菓子にとっても大きな意味があります。
砂糖が、一般にも知られるものとなったことは、和菓子の発達上、意義深いことです。
堺は、その入り口の町であったのでした。

ところで、堺の町衆たちは、茶道をしていただけではありません。
ポルトガルから伝わった鉄砲を生産し、全国の戦国大名に売っていました。
鉄砲を売りながら、わび茶を広めていたのです。
本当に、莫大な利益を上げていました。
堺はまた、キリスト教などの、南蛮文化が都に入るための入り口でもありました。

わび茶の三大宗匠は、そういう堺の繁栄が1世紀以上続いたころに生まれ、活躍しました。
茶道が発達したのも、政治的・経済的・文化的な背景があったからなのです。
さらに、堺には、お菓子を買うことができる、お金を持った庶民の数が多かったのでした。
だからこそ、茶道もお菓子の店も栄えたのです。

茶道三宗匠について

ここでは、千利休をはじめ、三宗匠と称される人々を紹介しておきます。

今井宗久
今井宗久は、大和の国(現奈良県)の出身。
堺に出て、納屋家に身を寄せ、武野紹鷗に茶を学びました。
紹鷗の娘と結婚し、茶道具を全部引き継いだので、紹鷗の息子と争うことになりました。
足利義昭に茶で仕えました。
織田信長が堺に税をかけた時も、信長に真っ先に応じたのは、彼が足利幕府の堺の代官をしていたからです。
その功績で、織田信長にも茶で重用されました。
信長の死後は、秀吉にも使えましたが、信長時代ほどの重用はされませんでした。
利休の2年後に死去します。

津田宗及
堺の豪商の息子として生まれました。
武野紹鷗の門人であった、父親から茶を習い、最初は石山本願寺の有力者をたのみ、のちには、三好政康につきましたが、最終的には、織田信長をたのみました。
明智とも、茶の交流があり、秀吉にも重用されました。
北野の大茶会では、利休や宗久とともに、茶会を行いました。
利休の死んだ年に死去。

千利休
堺の倉庫業の商家(魚々屋)の生まれ。
若い時から、茶の湯に親しみ、師の武野紹鷗とともに、茶の湯の改革を行いました。
織田信長が堺を直轄地としたときには、茶頭として仕えました。
信長の死後は、豊臣秀吉に仕え、非常に重用されました。
秀吉は、信長から引き継いだ、『御茶湯御政道』をしいていましたが、その中心にあったのが、利休だったのです。
なぜ、突然、秀吉の怒りを買って、死を命ぜられたかについては、定説はありません。
そのために、さまざまな作家が、作品に取り上げているのです。
いずれにせよ、1591年4月に聚楽第で切腹を命ぜられ、首は京都でさらされました。

利休は、わび茶の完成者です。

その真髄は、華やかさを否定した質実な美ともいわれますが(『南方録』)、むしろ、名物を尊ぶような、既成の価値観を退けたのが、その本質です(『山上宗二記』)。
既成の価値観を排し、自らの目を信じ、利休道具を作り出しました。
その利休道具が、もともとは決して高価なものでなかったことが、さまざまな意味合いを持つのです。
また、採光が自由になるように、茶室も改革しました。
茶室の建築に、近代的ともいえる自由さと合理性を持ち込み、単に数寄屋造りだけではなく、日本の建築史に大きな足跡を残しました。
また、路地を完成したことにより、もてなしの空間を完成し、茶道を一期一会の精神にもとづく、総合芸術にまで高めたのが、利休の業績でした。

堺の老舗和菓子店

では、堺の老舗和菓子店を、古い順にご紹介してまいりましょう。

1.かん袋(株)鎌倉末期1329年創業

くるみ餅は、室町時代に日明貿易で、材料の穀物を輸入し、5代目が作りました。
最初は、塩味だったのです。
その後、ルソンとの貿易で砂糖が入ってきてから、甘い味に変わりました。
くるみ餅は、壺に入れて売られています。
しかし、ナッツのクルミは使っていません。
お餅を緑色の、たれでくるみ、食べるので、くるみ餅というのです。

かん袋という名前は、豊臣秀吉からもらったもの。
面白いエピソードが、お店のホームページに紹介されています。
伏見御殿が出来上がって、大阪に、堺の有力な商人が招かれました。
その中に、主人の和泉屋徳左衛門もいました。
大阪城の建築が進んでいたのですが、屋根の瓦を運ぶ作業が遅かったのです。
そこで、この老舗の主人が、餅つきで鍛えた腕力を生かして、毎日、手伝ったそうです。
紙のかん袋が宙に舞うように、瓦がどんどん飛んだそうです。
秀吉は、それに感動して、「この餅を、これから、かん袋と呼ぶように」と名前を与えたのでした。
なお、明治時代に入って、かき氷に、くるみ餅を入れた、こおり餅が考案されました。
お店でのイートインは、くるみ餅とこおり餅です。

2.本家小嶋 室町時代創業

室町時代に創業した老舗。
戦国時代の1532年に、けしの実をつかったけし餅を売り出しました。
きめ細やかな求肥でこしあんを包み、けしの実をまぶしたもの。
このけし餅が、千利休の好物だったとのこと。
ちなみに、利休は1522年生まれです。
ほかにも、肉桂餅、翁、安平(あんぴん)といった、往時の雰囲気のただよう、素晴らしい生菓子を売っています。

3.大寺餅河合堂(株) 安土桃山時代1596年創業

開口神社(あぐちじんじゃ)は、大寺さんと呼ばれ、その門前で開いた老舗です。
あんこ餅や黄な粉餅を商っていました。
大寺餅は、柔らかな餅を小豆餡で包んだお餅。
与謝野晶子も愛したそうです。
ちなみに、千利休は、1591年に死にましたので、残念ながら食べていません。

4.小嶋屋 江戸時代延宝年間(元禄の前)創業
こちらも、けし餅のお店です。

5.八百源来弘堂 江戸時代 創業200年以上

もともとは、室町時代からの貿易商だったおうち。
香辛料を商っていたそうです。
肉桂を食べやすく工夫したのが、肉桂餅とのこと。
こちらでは、にっきもち、と読みます。
口の中で、とろける求肥とあんこ、ニッキの香りが、魅力的なお菓子です。

和菓子の聖地 堺

茶の湯の町、そして、和菓子の町としての、堺の側面を理解していただけたでしょうか。
老舗といえば、普通の町では、明治から続いているだけで、じゅうぶん老舗なのです。
ところが、堺の町には、鎌倉時代からの老舗があるとは。
千利休が幼いころに好んだ和菓子を、今も食べられる街であるとは。
和菓子にとって、堺は大変に意味の深い町なのでした。
ぜひ一度、訪れてみてください。
そして、ご自分の目で、体で、和菓子の町の雰囲気を味わってくださいますように。