菓子のはじまりは野にある木の実や果物であったとされています。
奈良・平安時代に中国から唐菓子が伝わったことをきっかけに、その後様々な変遷を経て発展していく和菓子の歴史を探ってみましょう。

菓子のはじまり

菓子は果子とも書かれ、古くは木の実や果物をさしました。しかし、私たちが菓子という言葉からイメージする菓子の原型は餅や団子にあり、徐々に変化して今の和菓子に発展していきます。では、最初の変化はどんなものだったのでしょう。奈良時代の正倉院文書に大豆餅や小豆餅の名前があります。名前が示すように、餅に大豆や小豆など別の食材を合わせたことが、今日の菓子のはじまりのようです。

奈良・平安時代の和菓子

日本文化は外国文化を受容しながら発展しました。和菓子の歴史も同様に外国からの影響を受けながら変化していきます。
最初は奈良・平安時代に中国から伝わった唐菓子です。それまで菓子は果物や木の実をさし、嗜好品として餅や団子に類したものがあっただけの時代に中国からもたらされた唐菓子は、平安時代の「源氏物語」や「枕草子」ほかの古典文学や古文書などに、まがり、ぶと、索餅などの名でたくさん登場しています。
平安京の市にも唐菓子を売る店があったようですが、時代と共に唐菓子は庶民の生活から遠ざかり、今では京都の下鴨神社や奈良の春日大社などで神様へのお供えとして伝わっています。唐菓子は米を材料に油で揚げるものが多いことが特徴ですが、もともとは小麦を使っていたものが後に日本化されて米を使うようになったと言われています。

鎌倉・室町時代の和菓子

鎌倉・室町時代には禅僧によって中国から点心という新しい食習慣がもたらされます。現在の代表的な和菓子である饅頭と羊羹も点心のひとつです。
饅頭の製法を最初に日本に伝えた人物には二つの説があり、ひとりは京都東福寺の開山となった円爾弁円、もうひとりは林浄因です。
鎌倉時代の中期、1241年に円爾弁円が宋への留学を終えて九州博多に帰り、博多滞在中に厚くもてなしてくれた茶店の主人に宋で習い覚えた饅頭の製法を伝授したと言われています。
また、1350年に来日した中国人の林浄因は奈良で饅頭作りを始めました。林浄因の家系は京都江戸にも移り住み、手広く菓子を作り続けています。京都には家業に因んだ饅頭屋町の名や塩瀬家文書が残されています。
点心としての羹には、羊羹・猪羹・海老羹など多くの種類がありました。現在和菓子になっている羊羹は、中国では羊の肉のスープでした。肉食のできない禅僧たちは、植物性の材料を用いて精進料理として羹類を作り、汁を添えて箸で食べていましたが、それが菓子に変化していったのはいつ頃のことなのでしょうか。
室町時代後期から安土桃山時代の言葉を伝える「日葡辞書」によると、羹は「日本の甘い菓子の一種」とあり、この頃には既に羹は菓子になっていることがわかります。羊羹は「豆と粗糖をまぜてこねたもので作った食物」、砂糖羊羹は「豆と砂糖とで作る、甘い板菓子の一種」と書かれています。材料の豆とは小豆のことで、黒砂糖と砂糖を使って板状の形をしていたことがわかります。当時の羊羹は蒸し羊羹で、関西の丁稚羊羹のようなものだったといわれています。
中国の食文化の影響を受けながら、和菓子は少しづつ現在の形に近づいていきます。