織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川、という歌を御存知でしょうか?これは江戸時代中期に詠まれたとみられる落首(詠み人知らず)で、信長・秀吉・家康へと受け継がれた天下統一を天下餅に喩えたものです。
天下統一は織田信長が基盤を作り、それを受け継いだ豊臣秀吉が成し遂げた後、徳川家康が三百年にわたる太平の世の礎を築きました。
信長・秀吉・家康のそれぞれの時代の和菓子の歴史を辿りながら、安土桃山時代から江戸時代にかけての和菓子の文化を探ります。

日本で最初にカステラを食べたとされる信長

信長といえば南蛮文化を取り入れたことで有名です。その時にポルトガルから日本に伝わった菓子がカステラであり、見た目も製法も今とは異なるものではありましたが、この時代にカステラの原型が伝わったことを思えば、信長は日本のカステラの祖ともいえるでしょう。実際に信長は日本人で初めてカステラを食べた人という説もあります。
天正七年に贅の限りを尽くして築城した安土城の跡からは、日常的に使用されていた茶道具などが出土し、城内で盛んに茶会を開いていた様子が伺えます。また、「続群書類従」によると、天正十年に信長が家康を城内でもてなした際の献立の中に、御くわし(菓子)として「やうかん、うち栗、くるみ、あげ物、花にこふ、おこし米、のし」とあります。うち栗とは蒸したかち栗に砂糖を加えて平たくしたもので、おこし米は今のおこしのようなものでしょう。ほかにも「天王寺屋会記」によれば、天正五年、安土城下で松井友閑(戦国武将)の茶会に招かれた時に「まめあめ、打栗、くしかき」で信長をもてなしたとあります。まめあめは大豆を炒って飴で固めたものです。
安土城築城から遡ること七年、天正元年に信長が京都で催した茶会では御菓子九種が供されており、その内容は「美濃柿、こくししいたけ、花すりむき栗、キンカン、さくろ、キントン、むすびこふ、いりかや」となっています。これらの菓子からは、初期の茶会における菓子の特徴が伺えます。ひとつは柿や金柑、柘榴などの果物と、栗や胡桃、椎茸、昆布に手を加えたものが多用されていることです。いずれにしろ、砂糖が貴重品の時代にたくさんの菓子を作らせた信長は、やはり和菓子文化の基礎を築いたといって良いでしょう。

茶の湯文化を発展させた秀吉

秀吉の世になって、「茶の湯」の文化はさらに発展していきます。茶道の持つ美的センスにあわせて、お菓子もただ甘いだけではなく、凝った形の菓子が作られるようになります。そんな秀吉の注文に応じて、新しい菓子を作ったのが老舗の「虎屋」です。「虎屋」が天皇の住まう御所に商品を届ける御所御用になった時期は、ちょうど秀吉の天下統一の頃と重なり、天下人と天皇を顧客に持った虎屋は菓子屋の頂点に立ちました。秀吉は大名も庶民も分け隔てなく茶の湯を楽しむことができる「北野大茶会」を開いたことでも有名です。
また、天正年間の頃、大和郡山(現在の奈良県大和郡山市)の郡山城の城主であった豊臣秀長が兄の秀吉を招いて茶会を開く際に、御用菓子司である菊屋治兵衛に珍菓を作るように命じました。菊屋治兵衛が餅に餡を包んできな粉をまぶした菓子を作って献上すると、秀吉はそれを大いに気に入り「鶯餅と名付けよ」と菓銘を下賜したとされています。現在この餅は、菊屋が城の入り口近くに店を構えているため、御城乃口餅という名で親しまれています。
天正十三年、秀吉の甥の秀次により八幡山城が築城された時には、城下町の建設にあたり、安土城下から多くの商工業者が移転させられてきましたが、和菓子屋の紙平老舗もその中の一軒でした。紙平の祖先はもともとは安土の住民でしたが、秀次の命で菩提寺の宝積寺が八幡山城の城下に移転するのに随行し、八幡に移住しました。もとの屋号は紙屋でしたが途中で薬屋となり、安永年間より薬屋で扱う砂糖などを用いて菓子も作るようになったと伝えられる、今も人気の老舗和菓子店です。

嘉祥で和菓子の普及に貢献した家康

元亀三年(1572年)三方ケ原の戦で武田信玄に大敗を喫した家康は嘉定通宝を拾い、家臣の大久保藤五郎が献上した菓子を口にしてから運が開けたといいます。
それから三年後の天正三年(1575年)織田信長、徳川家康の連合軍が武田勝頼と戦って勝利した長篠の戦いでは、出陣を控えた家康に塩瀬が「本饅頭」を献上します。塩瀬とは饅頭の起源となった林浄因を祖とする塩瀬総本家のことで、「本饅頭」とは大粒の大納言を加えた漉し餡を薄い皮で包んだものです。家康は『三国志』で軍帥・諸葛孔明が饅頭を供えた故事に倣って、饅頭を軍神に供えようとしましたが陣中には器がなく、兜に盛って戦勝を祈願しました。やがて家康が江戸に幕府を開くと、塩瀬総本家も京都から江戸に店を移し、将軍家の御用を務めました。
家康と和菓子の関係といえば、何と言っても「嘉祥」は外せません。嘉祥は現在の「和菓子の日」のルーツとなる行事で、旧暦六月十六日に十六個の菓子または餅を食べて、厄祓いをするという習わしです。室町時代には既に朝廷でまんじゅう等が贈答されていたようですが、徳川幕府もこの行事を大切にしており、毎年六月十六日には大名や旗本を江戸城大広間に招き、全員に七種類(のちに八種類)の菓子をふるまいました。内容は饅頭・羊羹・鶉焼・寄水(よりみず)・金飩(きんとん)・あこや・熨斗(のし)・麩で、その数は二万個を超えたとも言われています。幕府がそこまで嘉祥を大事にした理由は、先述の三方ヶ原の戦いの際、大敗した家康が嘉祥通宝を拾ったこと、家臣から献上された菓子を食べてから運が開けたことなどが挙げられます。江戸幕府の「嘉祥」は、和菓子の普及に大きく貢献した行事と言えるでしょう。

天下統一と共に発展した和菓子の文化は、上流階級のみならず、庶民の生活に根ざした文化として、今も多様な広がりを見せています。

天下餅の歌を、和菓子の文化に置き換えて詠んだとしても、おかしくないかもしれませんね。