カステラは日本で発展した

カステラという菓子は日本で発展しました。南蛮貿易でポルトガルから入って来た南蛮菓子を日本が独特に改変しました。そもそもポルトガルには「カステラ」という名前の菓子はなく、原型とされる菓子もカステラとは見た目も製造方法も大きくことなります。カステラの原型とされる菓子は「パン・デ・ロー」という名前で、キリスト教の教行事や親族の結婚式に振る舞われる円形のパンのような菓子です。主に卵、砂糖、小麦を使った食品です。

カステラの本場が長崎県とされている理由

長崎県長崎市には「福砂屋」という銘菓が存在しています。この福砂屋を元祖とし、製造工程が同じものを「長崎カステラ」と総称しています。

この長崎カステラは長方形または正方形の大きさの型に生地を流し込んで焼いた後に、さお型に切ります。また生地には水飴を用いているためしっとりとした食感になります。

カステラは江戸時代に大きな発展をする

江戸時代にカステラは私たちがよく知る形になります。江戸・大坂でカステラを焼くための炭釜が製造・改良され江戸時代中頃には長崎カステラの原型の元になる形になります。また、西日本では水飴を用いた製造方法が採用されるようになりました。この方法を採用されることによってそれまでのカステラよりしっとりしたカステラが作れるようになりました。

江戸時代におけるカステラの存在

このカステラは非常に人気があるお菓子でしたが、とても高価な菓子でした。なぜなら砂糖が貴重品だったからです。当時の砂糖の輸入経路はオランダの東インド会社からでした。日本からの金や銀の輸出量、砂糖の消費量が増えるにつれ、東インド会社から買い付ける量は増えていきました。その結果江戸時代の宝暦9年(1759年)には買い付け額が現在の貨幣価値で約24億円にもなりました。後に幕府から国産砂糖の生産が推奨され、輸入量は減りますが莫大な量の砂糖は台湾の台南を経由して長崎へと伝わっていきました。つまりカステラが発展するにつれ砂糖貿易を担った東インド会社と貿易拠点地となった台湾の存在がありました。砂糖には高い関税が掛けられていたにも関わらず、砂糖と砂糖も用いた菓子は大変人気があり、主な消費地は上方と江戸でしたが長崎もかなりの消費量になりました。全ての砂糖がカステラに使われたわけではありませんが、カステラには「砂糖をふんだんに使った菓子」というイメージが定着しました。カステラや大量に砂糖を使った菓子を「長崎の遠か」と揶揄されていました。景気の良い商人や中国商人、上方の人々は遊女に砂糖やカステラを渡していましたが、遊女達はそれらの菓子を銀に交換していました。つまり砂糖は銀と等価だったのです。

カステラは正真正銘の和菓子

カステラの原型、パン・デ・ローは確かに和菓子ではありません。しかしそこから日本人の口に合うように何度も思考錯誤されて甘くしっとりとした和菓子に改変されたのです。その結果、長崎カステラは海外でも味を認められるようになり、平成27年度の長崎カステラの輸出量は約16万個にもなりました。よってカステラは日本を代表できる菓子といっても過言ではありません。